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牧師のこーひーぶれいく

量り売り
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     100歳の母の所に行く度に話題になることがあります。私がまだ子どもの頃の苦労話しです。もちろん苦労したのは親の方で、子どもである私はエンジョイしていたので、その頃の楽しい思い出がたくさんあります。そのうちの一つに、お醤油の量り売りがあります。我が家から歩いて2〜3分の表通りにあった酒屋さんに小瓶を持って行き、そこにお醤油を一合(今で言う180cc)量ってもらって買ってくるというお使いに良く行きました。

     

     私が持っていったお醤油の小瓶に、じょうろの先を刺し入れて、そこに差し出した一合枡にお店の一升瓶からお醤油を注ぎ入れてもらうのです。一合枡に山盛りのようにナミナミと注がれた時も嬉しいのですが、その最後の時に一升瓶からドバッと出て、一合枡からあふれ出るように注がれた時は、何とも言えない幸せな気分になりました。そのお使いの度に、今日はドバッとあふれるかな、と内心で期待しながらお使いに行ったものです。

     

     子どもの頃のそんな経験があるからか、今でもお醤油を使うとき、その使う量にチョット気を遣います。小皿にお醤油を注いで、そこにおひたしなど付けてを食べるのですが、そのとき、最後のひと箸で、自分で注いだお醤油がキレイになくなると内心で満足します。食事が終わっても小皿に醤油が残っていると、心が痛みます。それは、回転寿司などに行ったときも同じです。最後の一貫でお醤油がなくなると、何となくホッとします。

     

     今週も私はお醤油を使うときに、私は無意識的に小皿のお醤油が残らないように注ぐと思います。その習慣の背景としては、お醤油の量り売りの経験と、そこで味わったナミナミと注がれた時の喜び、ドバッとあふれるように注がれた喜びがあります。今週も、神様は私たちに恵みを注いでくださると信じます。その注ぎ方は、私のお醤油の使い方のようなものではなく、ドバッとあふれるような注ぎ方で、私たちに幸せな気分を味わわせてくださると信じます。

    | - | 20:39 | comments(0) | - | - | - |
    ブルーノート
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       今日の午後の集会は、昨年に続いて二回目の「Q&A」の集いを持ちました。原則として、信仰のことについて自由に何でも質問できる会です。必ずしも、出された質問に答えなくても良くて、みんなで一緒に悩みましょう、という会です。昨年は、天地創造の記事やヨハネの福音書の聖句などに関しての質問がありました。今年は、どんな質問があるのか案じていました。もしかしたら、何も質問がないかもしれない、と気を遣ってくださった方が「三位一体」についてあらかじめ質問を書いてくださいました。

       

       先週の日曜日には、何人かの方が質問アンケートに質問を書いてくださいました。結果として、今日は12の質問を取り上げることになりました。それぞれに真剣な質問ですので、この一週間、しばらくぶりに睡眠時間を削ってできる限りの準備をしました。今日の「Q&A」の集いでは、口頭で一緒に考えても良かったのですが、せっかく事前に質問を書いてくださったので、私もA4用紙に4ページの「資料・私の個人的な意見」を書きプリントして配布しました。

       

       その資料を書きながら、フッと「ブルーノート」のことを思い出しました。それは、セミナリーの「答案用紙」とも言えるものです。学期末の試験になると、教師から試験当日は「ブルーノート」を用意するように言われました。すると学務課に行って、「ブルーノート」を購入して教室に行きました。B5程度の大きさで「青い」表紙の10数ページのノートです。黒板に書かれた課題に対する小論文をそのノートに書くのです。

       

       出された課題に対して、必要な用語を用いて、ある程度(?)まとまった論文が求められる試験です。答案が返ってきたときには、教授からの細かな添削が赤ペンでびっしり書かれていたのも思い出します。今回の「Q&A」の各質問に私の考えを書きながら、「ブルーノート」に思いつくままを書き綴ったセミナリー時代の試験を思い出しました。その内容は、セミナリー時代の成績同様、合格か不合格かのギリギリの低空飛行だと、皆様方に申し訳なく思いました。

       

       

      | - | 21:29 | comments(0) | - | - | - |
      ブドウ液
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         6月を迎えました。いよいよ今年も半分に差し掛かろうとしています。梅雨前ですが、すでに夏のような気温の日もあり、今冬の猛吹雪と大雪との戦いをなつかしくさえ感じています。私たちの教会では、先月から屋根全体の防水工事が行われていますので、空を見上げながら青空がのぞいているとホッとしています。あと1〜2週間で防水工事も終わると思いますので、それまで何とか梅雨が南海上で足踏みをしてくれるように願っています。

         

         今日は、6月の第一聖日と言うことで、聖餐式を執り行いました。季節は衣替えで気分一新ですが、私たちの信仰も聖餐式に与って新たな踏み出しを願いました。今日の聖餐式で用いるブドウ液には、昨秋に収穫したブドウを冷凍で保存していて、昨日その実から作った「特別なブドジュース」が加えられていました。市販のブドウジュースだけでは出ない、深い味わいがありました。週報にもそのことを記して、皆で味わいました。

         

         ブドウの木の農夫としてここまで10年近くも一生懸命に世話をしてくださったTさんにとっては、格別に深い感動を持って味わわれたと思います。礼拝後に、家内が「味はいかがでしたか?」と尋ねると、「三杯くらい戴かないと本当の味は分かりません。」と笑いながら満足げに答えておられました。そばにいた方からは、「いやー、たっぷりでした。おいしかったですよ。」と感謝と喜びの声が掛けられていました。

         

         その楽しそうな会話に、周りにいた者たちも笑顔になりました。もっとも、聖餐式の本来の喜びは、ブドウジュースの味の良し悪しに依るのではなく、神の御子イエス・キリストの十字架を受け入れることから来る心の奥深くの喜びです。そこで飲むブドウ液は、十字架で流されたキリストの血潮を表し、また、何とも救いようのないダメな私を救うために神様がそこまで犠牲を払ってくださった愛を表しています。さわやかな喜びを味わって新しい月に踏みいりました。

        | - | 20:34 | comments(0) | - | - | - |
        霊潮
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           「霊潮」とは、海水の満ち引きのように信仰的霊的な「高まりと低調さ」の度合いを表す言葉です。これは、私自身も最近は余り耳にしない言葉ですが、私が若い頃(当然のこととして伝道者として今よりもっと未熟な時)、私が伝道者として尊敬していた神戸のK牧師がしばしば口にしていた言葉です。教会の営みの全てにおいて、この「霊潮」の高まりに心を留めるようにと若い伝道者である私たちに語ってくださいました。

           

           私たちは、教会の成長を願って具体的な目標を立て、その目標を達成するために様々と知恵を絞り、可能な限りの工夫をして活発な企画や特別行事を実施します。その結果として数字的には教会が成長したように見えたとしても、それが「霊潮」の高まりによらなければ、また「霊潮」の高まりをもたらさなかったなら、それは本当の意味での「教会の成長」ではない、とK先生はその穏やかな表情からキッパリと話してくださったことを思い出します。

           

           今の日本のキリスト教界は、全体として暗いことばかりが目立ちます。社会の少子高齢化の波をもろに受けて、教会の10年後、20年後は今より激減すると言われています。その暗い展望を打破するために、私たちは焦りを覚えながら様々と悩んでいます。何をどうしたら良いか、どうしたら人々の関心を教会に向ける事ができるか、どんな特集を開催すれば人々は教会の門戸をくぐってくれるか、などなど、出口の見えないトンネルに迷い込んだような感じです。

           

           「何をしたら良いのか」という苦悩もとても大切ですが、私たちはもう一度「霊潮」の高まりに心を向けるべきではないかと考えさせられました。というのは、今日の礼拝が終わった時、一人の出席者に声をかけると涙をふいていたのです。お話を伺うと、会堂に一歩足を踏み入れた時から主の恵みを感じて涙がこみ上げてきたとのことでした。様々な課題の中を通っているからこそ、主の愛とあわれみを強く感じたのでしょう。もっともっと「霊潮」の高まりを祈り求めなければ、と強く示されました。

          | - | 21:46 | comments(0) | - | - | - |
          スポットライト
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             私たちの会堂には、数年前に「スポットライト」が設置されました。実はずっと前から講壇の所には、講壇専用の照明がなかったので少し暗い感じがありました。特に、説教者にとっては、原稿を読んだり聖書を拝読したりするのに、専用の照明が欲しいと感じることもありました。でも、講壇の真上に照明を付けると、原稿は読みやすくなるでしょうが、会衆席からは説教者が「輝いて」見にくくなると思い、照明器具は付けないままで過ごしてきました。

             

             10年ほど前から、地域に開かれた教会を目指して年に一〜二回「チャペルコンサート」を開催してきました。講壇で演奏者が演奏するとき、講壇が会衆席と比べて少し暗いことが気になっていました。それで、何年もかけて私たちの会堂にふさわしいスポットライトを検討しました。最初は、劇場などに使われるサーチライト形式を見ましたが、どうもふさわしくないと迷っていました。そして意外にも簡単で良いものが見つかり、数年前に設置されました。

             

             設置されてすぐの礼拝で試験的に使用してみました。説教の原稿は良く見えて、説教者である私にはバッチリでした。でも、会衆席の印象は、私には「スポットライトが似合わない」という評価でした。一番の要因は、私の頭の形と毛髪の関係でした。私は、どうも母方のDNAの影響か、年齢と共に細顔のお茶の水博士のような髪型になって来ました。それが、最近飲み始めたサプリの効果で、頭頂部に毛髪が再生し始めました。

             

             まだ照明を吸収するほどではありませんが、それでも全く輝いていた頃とは違って来ました。そんなことが影響したのか、最近になって会衆席から私に「スポットライト」を使ったら、とのお勧めがありました。ありがたいお言葉で、少し心が動いていますが、まだ原稿を読むのに苦労はしませんし、何よりも私は出来るだけ前面に出ないで陰に隠れる説教者を理想としていますので、今のところスポットライトに照らされることは辞退しています。

            | - | 19:59 | comments(0) | - | - | - |