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牧師のこーひーぶれいく

割りバシと輪ゴム
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     「断捨離」という言葉を耳にします。その度に、私の心は少しうずきます。まるで私に言われているように感じるからです。もう13年前になりますが、私たちの地方は大きな地震に見舞われました。会堂の壁も含めた建物や、食器やテレビや家財道具、そして私の書斎の本棚などに大きな影響が出ました。いまだに片付いていないのが、私の書斎関係です。書籍は相当処分したのですが、まだ手つかずで残っているものもあります。

     

     残っているのは、わずか数個の段ボールですが、ちょっと見たところ同じ段ボールの中に雑多に詰め込んであるので、処分のためには一応確認したいと思うのです。その時間がなかなか取れずに、つい放置したままになっています。家内からは、中を見ないで思い切って処分したら、と言われています。その通り、と思いつつも、イマイチ勇気がありません。そんな私ですから、「断捨離」という言葉を耳にする度、心がチクリと痛むのです。

     

     小学生の頃、クラスで「輪ゴムピストル」が流行しました。使い古した割りバシを何本か利用して、ピストルの形を作り、その先端に輪ゴムを引っかけて、手元の引き金部分を動かすと、輪ゴムが勢いよく飛んでいくものです。その割りバシを組み合わせるにも輪ゴムは必需品でした。クラスの友だちは、それぞれに「銃身」を長くしたりして輪ゴムが勢いよく飛び出す工夫をして自分の「ピストル」作って自慢し合っていました。

     

     私は、自分のピストルを作るのに苦労しました。というのは、その当時の我が家には、割りバシも輪ゴムもほとんどなかったからです。そういう生活レベルだったのでしょう。当時の私にとって、一本の「輪ゴム」も実に貴重なものでした。そんな子ども時代を過ごした私には、「断捨離」はなかなか難しいことです。誰の目にも不要と思えるものが入った段ボールでも、一度自分で見て確認したいと思ってしまうのです。その他のことでも、「手放すこと」は私の課題です。

    | - | 21:36 | comments(0) | - | - | - |
    バプテスマのヨハネ
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       青年たちにアンケートをしました。その中に、聖書に登場する人物の中で誰に親しみを覚えるか、という項目がありました。それぞれに「有名人」が書かれていました。多くの民を率いた偉大な指導者の名前や、敵の勇士を倒した少年の名前、また異国人でありながらしゅうとめに仕えた婦人の名前、町の嫌われ者だったにもかかわらずイエス様を家に迎えた取税人などが記されていました。書いてくださった青年たちの思いを想像しながら頷かされました。

       

       さらに、ペテロの名前を記しながら、あえて「イエス様を三度知らないと拒絶したエピソード」と但し書きを書いてくれた青年もいました。単にペテロの名前だけが記されていても、それはペテロという人物が失敗が多かったから特別に親しみを感じると想像出来ます。それが、あえて「三度拒絶したペテロ」と特定しているのは、とても興味深く感じました。幼いときから教会に集っている青年ですが、自分自身の信仰について真剣に受け止めていることを感じました。

       

       そのアンケートに様々と教えられながら、果たして自分が彼らの年齢の時、どのような人物を挙げていただろうか、と考えました。多分、華々しい活躍をしている人物を、単に「カッコがいい」という程度の理由で挙げていたと思います。自分の弱さや失敗と重ね合わせて親しみを抱くというような深い考えはなかったと思います。では、今の自分は、どういう人物に親しみを覚えるか、と考えてみました。

       

       だれか一人に絞ることは出来ませんが、バプテスマのヨハネもその一人です。彼の奉仕の「地味さ」にあこがれるからです。常にイエス様のために道を備えることを第一とした奉仕でした。ですから、自分の弟子に、イエス様を指さして「神の小羊」と言って、自分ではなくイエス様に従うように勧めました。そして、イエス様が盛んになることを喜び、自分は衰えなければ、と言い切りました。そんなヨハネにあこがれます。でも彼が食した「野の蜜」は、私は苦手です。

      | - | 21:32 | comments(0) | - | - | - |
      キリギリス
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         「キリギリスみたいで申し訳ない・・・」と言いながら、キュウリに味噌を添えて食卓に出してきました。私は「スィーチョン」と答えましたが、家内から「それってキリギリスの鳴き声?」と疑問を呈されました。言われてみれば、キリギリスの鳴き声がどんなものか知りません。いずれにしろ、我が家の夏の食卓には、このキュウリと味噌が立派な一品として頻繁に登場します。それを食べながら、いつも思い出すことがあります。

         

         我が家が青森にいたとき、広い庭がありました。両親は、必要に迫られて、そこに野菜を植えました。当時は、水道ではなく、台所に手でガチャガチャと動かすポンプ式の井戸でしたから、水やりは大変だったと思います。前の道路の真ん中に、幅1メートルぐらいの用水路(私が落ちて流され、すんでの所で選択していたおばさんに命を助けられた用水路)がありましたので、父が枝の長いひしゃくでそこから水やりをしていました。

         

         夏の収穫は私たち子どもが担当しました。当時のキュウリは、まだ改良されていなかったようで、根元の部分はとても苦みが強く、子供心に、キュウリは先っぽの方がおいしいものだと思いました。今のキュウリは、根元の苦みはほとんどなく、全部がおいしくたべられます。それでも、子どもの頃に印象づけられた「キュウリは先っぽがおいしい」という思いはいまだに強くあって、選ぶとなるとつい先っぽの方を手にしてしまいます。

         

         言ってみれば、この「キュウリ・味噌」は私のソウルフードのようなものです。味噌を付けてキュウリをかじりながら、60年も前の子どもの頃をなつかしく思い返すことが出来るからです。ただ、毎日のようにそれを食卓に出す家内は、時には心が引けるらしく、「キリギリスみたいで・・・」という言葉を添えます。私は、伝道者として「ギリギリッス」と感じていますので、キリギリスのようなものかも知れません。

        | - | 08:14 | comments(0) | - | - | - |
        ガラガラ声
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           私は、礼拝時に講壇に上がるとき、いつも「今日も、私の『五つのパン』を主のために用いてください。」と祈ります。ヨハネ6章に「5千人の給食の奇蹟」が記されていますが、それは、少年がイエス様に提供した「五つのパン」を用いてなされました。ただ、その「五つのパン」は「大麦のパン」と記されていて、それは粗末なパンのことだそうです。私の準備した説教も「粗末」なものですが、主が尊く用いて兄姉方を豊に満たしてくださるように、との願いを込めた祈りです。

           

           また、礼拝を通して、兄姉方が聖霊の語りかけに耳を傾けて頂きたいと願いつつ講壇の奉仕を心がけています。聖霊の語りかけは、「かすかな細い声」と記されています。聖霊の静かな語りかけは、外からのどんな大きな音に妨げられずに、私たちの心の奥深くに語りかけてくださいますが、それでも説教者としての私が心がけるべきは、私の声が聖霊の語りかけを妨げないことです。ただ私の声はしばしば大きすぎるのではないかと案じています。

           

           先々週の水曜日、私はノドの奥に少し痛みを感じていました。特別集会を前にしていましたので、早めに直さなければ、とこの様なときのためにお医者さんから早め(?)もらっていたクスリを飲み始めました。幸いにも、特別集会は支障なく越えることが出来ました。それでクスリは必要がないとやめたのですが、先週の水曜日にまたしてもノドに痛みを感じました。先回よりも、少しひどい感じがしましたので、今度は医者に診てもらいました。

           

           少し深刻そうに症状を言ったのですが、医者はそれまで飲んでいたクスリと同じものを処方してくれました。これで大丈夫かなと案じていましたが、案の定、効き目が弱く、ノドの痛みはなかなか引きませんでした。それどころか、今朝も最悪なガラガラ声になっていました。いかにも聞き苦しい声です。こんな声では、聖霊の細く静かな声のジャマをしてしまうのでは、と兄姉方にお詫びをしてからガラガラ声で説教の奉仕をしました。

          | - | 20:48 | comments(0) | - | - | - |
          固定観念の打破
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             今日、私たちの教会では三浦読書会の森下先生をお迎えして特別集会を開催しました。午前の特別礼拝と共に、午後は地域社会に宣伝をしての映画会「塩狩峠」をしました。私たちにとって初めての映画会ですので、今までよりも大きなスクリーンを購入し、さらに上映権の購入などの諸手続きを万端整えて準備をしました。そこに至るまでの森下先生を始めとして、三浦読書会関係の方々の良きアドバイスに感謝しています。

             

             対外的な手続きは順調でしたが、一つ問題として残ったのが暗幕のことでした。私たちの教会は、30数年前の建築の時、それぞれの窓にはロール式の暗幕を設置しました。それだけで十分な暗さになるのですが、玄関ホールとのドア四枚への暗幕が課題となりました。会堂建築当時は、それらにも暗幕が作られたのですが、その設置金具が不十分なので今回新たに準備することにしました。でも、考えている以上に上手くいきませんでした。

             

             教会員の方々とも頭を悩ませましたが、なかなか名案が浮かばず、2〜3週間悩み続けました。ドアの前にたたずんで悩んでいたとき、ハタと思いつきました。ドアの外側から設置しようとしていたから上手くいかないのでは、と。それで、ドアの内側から設置する方法を考えました。今まで上手いかなかった課題が簡単にクリアされて、実に上手い具合に簡便に設置出来ました。そのおかけで、今日の映画会も丁度良い暗さでクリアな画面となりました。

             

             外側からでなく内側から、という考えに至ったのはまさに固定観念の打破と言えます。考えついてみると何ともないことのようですが、そこに至るまでは何日も何日も悩みました。大げさに言えば、それは「産みの苦しみ」による新たな対応策と言えるのではないでしょうか。今の時代は、宣教の働きがなかなか進展しないと言われています。簡単な解決策はないと思いますが、これからも「産みの苦しみ」をして、固定観念を打破するように取り組んでいきたいと思います。

            | - | 21:55 | comments(0) | - | - | - |