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牧師のこーひーぶれいく

コスモス
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     今日は、とてもさわやかな秋の日でした。いくつかの町内会では避難訓練が実施されたとかで、レギュラーの何人かは欠席でした。午後には、今月一回だけの「伝道会・聖書と賛美の集い」が持たれました。やはり、様々なご都合で欠席の方が多く、少々さみしい集いでしたが、司会や証などの真実なご奉仕を頂いて、心は感謝であふれました。特に、先週の月曜日に開催された「第44回・北越聖会・新潟地区」の感想が分かち合われ、講師の熊谷師の真実なご奉仕により、多くの恵みを戴いた感謝が語られていました。

     

     すべての集会とその後の後片付けを終えたところで、家内が公園に行こうと誘ってくれました。長岡の郊外に、国立の丘陵公園があります。そこのバラとコスモスが見頃とのことで、数日前から行きたいと言っていたのです。いつもですと、グッタリと疲れて何をする元気もないのですが、健康とダイエットの必要感から誘いに乗ることにしました。何しろ、衣替えで着た秋冬の服がギュッと締まった感じになって、何とかしなければと思っていたからです。

     

     小学の低学年の頃、十和田教会の庭にはコスモスがたくさん咲いていました。自分の背丈を越えたコスモスの林の中を遊び回った記憶があります。背伸びしてコスモスの花をちぎり取り、花びらを間引きしてコスモスの竹とんぼを作って遊んだのです。コスモスというと、すぐにその光景が思い浮かびます。なぜアノ光景なのか自分でもわかりません。きっと、なんのストレスもない子どもの頃の無邪気な日々のなつかしい思い出として心に深く刻まれているのでしょう。

     

     そんなこともあって、聖日の集会を終えた夕方、本当は疲れて休みたいのですが、コスモスの言葉にさそわれてノンビリした時を過ごしました。セミナリーの新約の教授が退任の記念講演の時、もう一度人生をやり直せるとしたらしたい事、という中に、もっと散歩をしたい、と言っていたことを思い出しました。確かに、自然を眺めて身体を動かすことは良い気分転換になりました。これからも精一杯の仕事をするために、私ももっと散歩をしようと思いました。

     

     

    | - | 18:53 | comments(0) | - | - | - |
    「当事者性」
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       今年のノーベル平和賞が、二名の方に決まりました。それぞれが、戦争における性犯罪の被害者の立場に立って救済活動に当たっている方でした。お一人は医師として被害者の治療に当たっておられ、もうお一人は、ご自身も被害を受けながら、同じ被害に遭った方々の救済に当たっておられるとのことです。そして、そのお二人の受賞が、戦争を隠れ蓑にした性暴力の加害者に対するその責任の糾弾につながるように、と語られていました。

       

       そんなことはあり得ないとは思っていましたが、事前の予想では、打算と自己顕示欲によって手をつないで平和推進のポーズを取っていた政治家が有力候補と言われていました。これまでの平和賞受賞者の中にも、日本人を含めて何人かの政治家がいましたが、その多くは、うわべのポーズとは裏腹に、世界の平和推進どころか、むしろ戦争(地域紛争)を推進させていました。今年の平和賞受賞者は、弱い立場の人に寄り添っている人たちで、良かったと思います。

       

       世界の平和に貢献するためなどと大きなことを言わなくても、私たちも日々の生活の中で、傷つき悩み弱さの中にある方々に対する姿勢を考え直さなければならないと思います。そのキーワードは「当事者性」です。河村従彦先生が、その著書「試練の意味」の中で詳述しておられますが、この「当事者性」とは、簡単に言うと、悲しみ苦難の中にある方々に、どれだけその苦しみを自分のものとして寄り添うことができるか、ということです。

       

       苦難の中にある人に、遠くから同情の目を注ぐことは簡単です。そして、ああすれば良い、こうすれば良い、とアドパイスをすることも可能です。でも、そのアドバイスは、しばしば苦難の中にある方をさらに傷つけます。アドバイスが正論であればあるほど、その傷は深くなります。そうではなくて、自分がその試練を受けている「当事者」のように、深く悩みを味わい続けることが、苦難の中にある人にとっては慰めとなるのではないでしょうか。その「当事者性」の一番の模範は、人となって苦しみを味わってくださった神の御子イエス様です。その模範に倣いたいものです。

      | - | 22:45 | comments(0) | - | - | - |
      架空の果物
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         今日、9月最終の聖日は、大きな台風の接近が報じられている中でしたが、私たちの教会は今日も普通に礼拝を守ることが出来ました。台風の進路にあたっている地方では、礼拝出席も妨げられた方がいるのでは、会堂の建物に被害が出ないようにと、礼拝ではお祈りをさせて頂きました。毎週、変わらずに礼拝を守れることも、決して当たり前のことではなく神様の恵みの一つと、出席のお一人お一人の顔を見ながら感謝しました。

         

         今日の週報のコラムには、いちじくに関する私の思い出を書かせて頂きました。そのキッカケとなったのが、家内が作ってくれた「いちじくの砂糖煮」です。今年で2回目です。実は、10日ほど前に一度作ってくれました。そろそろいちじくの季節も終わりなので、今年は一回だけで終わる予定でした。ところが、お店に安売りのいちじくが出ていたので予定変更で二回目のいちじく煮となりました。

         

         この時期、私にとっては、このいちじくの砂糖煮は、一つの思い出の味なのです。家内の実家にいちじくの木があり、たくさん採れた時に義母がよくいちじくの砂糖煮を作ってくれました。朝食時にパンに載せて食べたり、三時のおやつに甘味を楽しんだりしていました。もう何年も前に、そのいちじくの木をなくしたのでずっとなつかしくは思っていましたが、諦めていました。そんな私の思いを察して、家内がいちじくを煮てくれたのです。

         

         今年二度目のいちじく煮を味わいながら、十和田時代のS老兄を思い出していました。当時の十和田ではいちじくが出回っていなかったらしく、そのS老兄は聖書に出て来る「いちじく」を一度も見たことがありませんでした。それで、いちじくとは「架空の果物」と思ったようです。牧師として赴任した両親から、いちじくの話しを聞いて「一度で良いから食べてみたい」と言ったそうです。甘いいちじくを味わいながら、聖書の記事は決して架空でないとうなずきました。

        | - | 20:13 | comments(0) | - | - | - |
        秋バテ
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           今日は、さわやかな一日でした。午後からは多少気温が上がったようでしたが、窓から吹き込む風は秋の心地よさを感じさせてくれました。九月はまだ一週間ありますが、ここまで支えられたことを感謝しホッとしています。というのは、九月の初めからずっと体調が思わしくなく、少し苦労していたからです。寝込むまでではなかったのですが、ノドがガラガラになって声が出なくなりました。説教者としては一番辛いところです。

           

           もっとも説教者よりも辛かったのは聴衆の皆様だったかと思います。礼拝に来る度に、ガラガラ声で、しかも、汗だくで苦闘する説教者が講壇にいるのですから。本当に申し訳なく思いました。セミナリー時代に、ワインクープ博士というご高齢のご婦人の先生がいました。お若い頃、日本に宣教師として来ておられたので、日本のこともよくご存じでした。それで私は個人的にも様々と教えて頂き、とても尊敬していた先生です。

           

           その先生があるクラスの時「後の方に座っている皆さん。私の声は小さいので、もっと前の方に座ったらいかがですか。もっとも、前の方に来ても、見えるのが私では余り楽しくないかも知れませんね。」とニコニコと話したことがありました。とても尊敬している先生ですから、こんなことを言っては申し訳ありませんが、確かに間近に見ても決して「美形」ではありません。でも、その穏やかな笑顔には美しい人格があふれていました。

           

           私も、会衆の皆さんに「今日は声の調子が悪いので、申し訳ありませんが、もう少し前の方にお座りくださいませんか。」と言えたら良いなぁと思いながらも、この顔ではムリとあきらめました。そんな9月、ご迷惑をおかけしてしまいました。テレビでは、そのような症状を「秋バテ」と言っていました。何かで読んだ言葉に「間違いは、危険な日々よりも安瀬と思う時に冒すもの」がありました。まさに、夏バテをしないで酷暑を乗り切ったトタンの秋バテでした。でも、回復して感謝しています。

           

           

          | - | 19:46 | comments(0) | - | - | - |
          冗談では済まされないこと
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             今日は、敬老祝福礼拝としてご高齢の方々に小さな祝意を表しました。聖句は、競撻謄蹌犠呂任靴拭その中で、ペテロは自分自身を「長老の一人として」と年長者と自覚しています。でも、そんな高齢者ペテロは、どうも今の自分の年齢に近いのではないかと思って、妙な気持ちになりました。自分はまだまだ「年長者」という自覚がないからです。「若者」とは言えませんが、「未熟者」であるという自覚は毎週の集会ごとに新鮮に感じているからです。

             

             そんな私は、このブログに加えて、週報に短いコラムを書いています。信仰的にチョットした新しい視点を感じて頂ければ良いと願って書いていますが、書くことが見つからないときは苦闘します。それで、今日は、アメリカの友人から仕入れた以下のようなジョークを書きました。「牧師が教会員に『何でも相談事があったら言ってください。いつでも何でも喜んでご相談に応じます。』とアナウンスをしました。すると、その日の夜三時に電話が鳴りました。

             

             教会員の一人の老婦人からでした。夜中の三時にどんな大きな問題かと緊張して電話を受けた牧師に、その婦人は言いました。『先生。私は眠れなくて困っているのです。』牧師は少しホッとしながら言いました。『それはお気の毒に。それで私に何をして欲しいのですか。』その老婦人は、慎ましやかに言いました。『いま電話口でチョット説教をして下さいませんか。そうすればきっと眠れると思います。』」

             

             今日は、このところ苦しんでいた風邪が治って、声だけは絶好調でした。でも、私の普通の声は、アルファア波があるのか、聴く方を心地良い眠りにさそうようです。私の孫たちは、私の子守歌でぐっすり眠ってくれました。つまり、上記のジョークは、長岡教会ではジョークにならないのです。私は、その週報のコラムの後に、次の言葉を付記しました。『長岡教会の方は、そんな時は電話ではなく、録音テープをご利用下さい。』

            | - | 20:23 | comments(0) | - | - | - |