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牧師のこーひーぶれいく

東山
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     わが家からは東山が見えます。と言っても、隣の工場の屋根にさえぎられて頂上部分だけですが。書斎を出た3階の廊下のガラス戸越しに、八方台や鋸山という標高500メートルから750メートルの山並みが見えます。問題や課題に押しつぶされたり、自分の弱さや愚かさに打ちのめされてガックリと落ち込んだときなど、詩篇121篇を口ずさ見ながら東山を見つめています。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。」

     

     しばらく東山の峰々を見つめた後、ホンの少し視線を上に向けて広い空を見ながら、詩篇121篇の次の節「私の助けは、天地を造られた主から来る。」を心に留めます。心にのしかかる重荷や課題、自分のダメさ加減などは少しも解決は着いていなくても、それまでの絶望的な心の重さは、ホンの少し軽くなって、希望と信仰を新しくすることができます。私にとって、わが町の東山連峰は、とても大切な存在です。

     

     今日の礼拝は、少し特別な意義のある礼拝でした。70年近く信仰生活を辿られた一姉妹の追憶記念礼拝としたからです。そのご姉妹は、結婚を機に、一切の集会出席が許されない環境に置かれました。近くの実家にすら立ち寄ることも出来ないほど厳しい管理下に置かれたと伺いました。そのような中、月末になると教会に立ち寄られていました。月末の集金を必死に早くに済ませて、短い時間を作り教会に来て祈っておられたのです。

     

     今日の礼拝で、そのご苦労を近くにいて見ていた方から、その姉妹が詩篇121篇で信仰が支えられていると証ししておられた、と伺いました。多分、そのご姉妹も、詩篇121篇を口ずみながら東山を見上げておられたのかな、とそのご苦労と涙の日々を忍びました。その方が残してくださった、困難や試練の中で御言葉に支えられる信仰という証しを、これからも受け継いでいきたいと思います。これからは、また新たな感動をもって東山を見上げることが出来ます。

    | - | 20:04 | comments(0) | - | - | - |
    じぃじが、勝手に・・・
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       十月の第二聖日を越えることが出来ました。8月末から9月初めの入院によって、想像以上に体力が落ちたことを感じている私ですが、それでも日に日に回復をしていることを実感しています。そんな私にとっては、一回一回講壇のご奉仕を越える度に、奉仕できたことを感謝しています。長岡教会の兄姉方が様々と支えてくださり、私の欠けを補っていてくださることも大いなる感謝です。今日も、新しい聖書の頒布が一人の兄弟によってパーフェクトになされました。

       

       明日は、二地域での分散開催となった北越聖会です。長岡出身の林先生を講師にお迎えすることで、喜びと期待は倍増です。その準備もあって、今日の午後の集会お休みとしました。いままではこんなことはなかったのですが、午後の少しの時間を横になって休息する時間にしました。夕方には、どうしても一軒の訪問があったので出かけました。帰宅して、また休息を取ろうかと思っていたとき、携帯電話が鳴りました。孫娘からの電話です。

       

       数日前、初めての通知表を見せてくれた小一の孫と約束をしていたのです。一学期(というか、前期)を頑張ったご褒美に、じぃじと二人で外食をしよう、と。その時は、雰囲気に負けて、励ましになればと思って約束したのですが、現実になると正直少しおっくうな気がしました。でも、声を弾ませている孫娘の声を聞くと、少し元気が出てきました。しかも、4歳の孫娘も一緒に行きたいと言っているとか。またも軽はずみに「いいよ」と言ってしまいました。

       

       出かけようと、四歳の孫娘に手を出して「だっこしようか」と言うと、「ママがダメって」と遠慮しました。体調が悪い私を気遣ってママが言い聞かせたのでしょう。それでも、手を出して「おいで」というと、「じぃじが勝手に抱っこするならいいよ」と言って抱っこされてきました。私が「勝手に」か・・・と苦笑いですが、神様の私たちに対する愛、特に十字架に現された愛は、まさに「神様が勝手に…」という真実で深い愛だと感謝の思いを新しくしました。

      | - | 20:35 | comments(0) | - | - | - |
      パンク
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         今日の礼拝後、「五つのパンの集い」が持たれました。「五つのパン…」というタイトルですが、教会で作ったカレーを食べながら自由に語り合うフェローシップの時間です。教会員の方々は、ご飯だけを家から持ってきて、そこにカレーをかけて戴きます。今日も、カレーの他に教会員の方々が持ち寄ってくださった副菜がカレーライスのシンプルなメニューを賑わして、各テーブルごとの自由な語らいを盛り上げてくれました。

         

         ただ、今日は自由な語らいに加えて、今年の残り三ヶ月の集会予定について協議の時も持ちました。何しろ、今年は、12月24日が日曜日で、さらに12月31日も日曜日という、何とも「ピッタリ」過ぎる日程ですので、かえって対応が難しいと思い、皆様方の知恵をお借りしたいと願いました。大切な問題ですので、皆様も真剣に考えてくださいました。それで、長岡教会としては始めとのことですが、12月24日の礼拝時に「キャンドルサービス」を実施することに決まりました。

         

         その他にも、長岡教会の宣教の活動全体に関しても皆様方のご理解を戴くように、私の思う所を少しお話ししました。特に、これから10年20年30年後に結実に至ることを期待しながら今は活発なタネ蒔きに励みたい、と願っている旨をお話ししました。良く理解して積極的に受け止めてくださいましたが、同時に、活発な活動を推し進めるだけでなく、時には「撤退する勇気」も必要という貴重なご意見も戴きました。

         

         というわけで、いつもの「五つのパン」の時間を少し過ぎて、教会員の方々が帰途につこうと駐車場に出ると、お一人の方の車のタイヤがパンクしていました。その方は、笑いながら「撤退の勇気を」という意見を言うから神様からお叱りを受けた、と仰っていました。そしてパンクのタイヤを交換しながら、その方は、「自由に意見を」と言われても「発言するのは、とても勇気がいる」と話しておられました。そのパンクは、もっと聞く耳を大きく開くように、という神様からの私への指摘ではないか感じました。

        | - | 20:02 | comments(0) | - | - | - |
        シンプルな出来事
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           一ヶ月ほど前、看護師の方ととりとめもない話しをする機会がありました。その日は、午前と夕方に処置を受けました。処置の前に精密な検査をして、その検査結果を受けて処置を受けるのですが、検査結果が出るまでの時間を控え室で待つように言われていました。午前の時は、家内と娘が付き添ってくれました。小一時間の待ち時間、たいした話題もないので、とりとめもない話しをして過ごしました。

           

           夕方の時は、付きそいはいらないからと家内に言って、私一人でジッと待つことにしました。私の数少ない長所の一つは、待つことが苦痛ではなく、むしろ楽しむことができます。ところが、夕方の待ち時間に、看護師が私のそばにやって来て、とりとめもない話しを始めました。多分、その看護師は、処置前の緊張感をほぐす役なのかもしれません。気の毒に、無理に話題を探して何とか私の緊張をほぐそうとしてくれました。

           

           北朝鮮のミサイルが飛んできたら、政府は地下室に逃げ込んでと言うけれど、そんな地下室はどこにもない、などと話していました。どう答えて良いか分からず、私はアメリカで竜巻警報の時に地下室に逃げ込んだことを話しました。すると、なぜアメリカに行ったのか。と質問して来ました。私は、牧師としての訓練を受けたことを話しました。すると、牧師になろうとしたのは、どういう契機からだったのかと真剣に聞いてきました。

           

           どう説明して良いか戸惑いながら、私は「神様からの語りかけに素直に応じた経験」をできるだけ一般の方に分かりやすく話しました。すると、その看護師は、「深い話しですね。」と感心してくれました。私は「いえいえ、実にシンプルなことですよ。神様の語りかけに、素直に応じただけですから。」と答えました。すぐに処置が始まりましたが、私は40数年前の「召命=シンプルな出来事」を思い巡らしながら処置を受けました。

          | - | 21:47 | comments(0) | - | - | - |
          伏兵を備える神様
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             旧約聖書には、特に戦いの記録の中には、神様が伏兵を設けてくださったと記されている箇所があります。イスラエルの軍勢に、伏兵を配置するように指示しているだけでなく、その伏兵がどこから来たのか、どういう軍勢なのかハッキリしないけれども、イスラエルの勝利に大いに貢献しているという不思議な記事もあります。聖書は、ただ神様が伏兵を備えていてくださった、とだけ記しています。

             

             この度、9月の第一聖日と第二聖日に、長岡教会では特別なメッセンジャーをお迎えしました。特に、第一聖日の説教者は、カナダの日本人教会で奉仕をしている方で、たまたまビザの関係か何かで短期帰国をされ、その短い滞在期間の中で、その聖日に故郷の長岡に来られることになったのです。今年の2月から、その聖日が私の入院と重なることが分かり、しかも外泊もできないことが分かって、どうしようかと悩んでいました。

             

             当初は、これまでのように「録音テープ」で欠けを補うことを考えていました。(録音ではなく、録画という手もありますが、そこまでして見て頂くような顔でもないので、録音で良いと言うことになったのです。)ところが、5月の連休明け頃だったと思いますが、T先生がカナダから一時帰国されるという話しを伺いました。しかも、その期間が8月終わりから9月の初めとのことで、私は心のなかで期待をしていました。

             

             T先生の帰国スケジュールが決まった時、驚くことにそれが私の不在聖日とピッタリ合致したのです。まさに神様はご自身が備えた伏兵を派遣してくださったのです。でも、こんなにすばらしい神様の御業は私の信仰生涯にごくごく数少ない経験です。ほとんどは、神様の伏兵を期待しながらも伏兵が現れず、苦悩の中でもがいていました。今回のことを通して、伏兵を派遣できる神様が「あえて」そうなさらなかったことの中にも、伏兵が備えられた以上の深い意味があると教えられています。

            | - | 10:05 | comments(0) | - | - | - |