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牧師のこーひーぶれいく

コントロール良い神様
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     私は、スポーツ全体が好きです。テレビ観戦も好きですが、やはり実際に身体を動かして楽しむ方が何倍も好きです。特に、ボールを使う競技が好きです。小学生の頃は、学校の休み時間も帰宅後の近所の友だちとの遊びでも、とにかく野球が中心でした。中学2年生の時に慢性腎炎を患って、医師から運動を禁じられても、好きな球技はこっそりしていました。高校生の時、ラグビーなどは真っ先にグランドへ飛び出していました。

     

     ただ、ボール競技の一つの難点は、相手が必要だと言うことです。牧師としてのスケジュールは、なかなか相手を見つけることができません。仕方なく、(運動神経があまり良くない)家内を相手にテニスをしたことがありました。私がコントロール良く家内に打ちやすいボールを打つと、家内はとんでもない方向へ打ち返すので、私はアッチコッチへと必死でボールを追いかけ、二三球ですぐに疲れ果ててしまう、と言うことの連続でした。

     

     そんな家内ですが、バスケットボールだけは得意でした。反対に、私はバスケットボールだけはどうも苦手でした。ドリブルやパスは人並みにできるのですが、肝心なシュートがなかなか決まらないのです。家内がポンポンと簡単にシュートを決めるそばで、私のボールはネットすら揺らさないほどコントロールが悪いのです。今でも、紙くずをゴミ箱に投げ入れるのが苦手です。目で見ている方向と、手がフワッと投げる方向との連携が悪いようです。

     

     この度、神様はとてもコントロールが良い方と教えられました。それは、昨年の7月から続いた私の病気治療の関係で、先週と今週の礼拝説教をどなたかにお願いしなければならなかったのですが、先週は不思議なようにカナダから一時帰国のT先生のスケジュールがピッタリ合ったのです。神様は「時」すらも見事なコントロールで、ピッタリとゴールを決めてくださったのです。今も、私の様々な課題や問題を、コントロール良く扱っていてくださると信じています。

     

    | - | 21:09 | comments(0) | - | - | - |
    痛みを知る人に
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       もう何年も前のこと、アメリカのプロ・フットボールチームのコーチが話題になったことがありました。彼が率いるチームが全米一になったことももちろんですが、そのコーチのお子さんのことが大きく取り上げられていました。そのお子さんが、痛みを感じないという体質で、打ち身や骨折でも少しも痛みを感じないので、またしても高い所から飛び降りるとか・・・。痛みを感じないことは、大きな危険が伴うものと同情しました。

       

       先日、孫が血液検査のために注射をされました。泣かなかったというので、ご褒美を請求されました。なぜご褒美をあげなければならないのか、という意義も申し立てられましたが、私としては「立派な」ご褒美の理由だと、孫を褒めてご褒美をあげました。でも、あとで聞くと、足のスネをテーブルにぶつけた時よりも、ずっと痛みが小さかったと「冷静に」話していました。注射の痛みは、実際の痛みよりも、注射を打たれるという恐怖から来る痛みだということを、二人で納得しました。

       

       私たちの日常生活では、様々な痛みがあります。肉体の痛みだけでなく、対人関係によって受ける心の痛みもあります。話している本人は何の悪気もなく口にしている言葉で、聞く人の心にはグサッと大きな注射針を刺されたような痛みを感じることがあります。そういう痛みをたくさん受けた人は、自分でも敏感になって、自分の言葉や態度に気をつけて、不用意な言葉が誰かを傷つけないように心がけるのではないでしょうか。

       

       もし、そういう痛みを全く感じない人がいたら、その人の周囲には心が傷つけられた人が大勢いるのではないでしょうか。そして、その痛みを感じない人の言動で、周囲の人は深く傷つけられるでしょう。しかも、周囲の人がどんなに深く傷ついて心の痛みに苦しんでいても、傷つけた当人はケロッとしているとしたら、その人は「幸せ」な人なのではなく、何とも気の毒な人と言えるでしょう。そんな人にはなりたくないものです。痛みには敏感でありたいです。

      (私の個人的な都合で、来週のブログはお休みです。)

      | - | 21:14 | comments(0) | - | - | - |
      lリンゴの思い出
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         今年は、全国的に不順な気候に悩まされ、また各地で被害も出ています。それから比べれば長岡は穏やかと言えると思いますが、やはり夏らしくない曇天の日々が続いています。それでも郊外に広がっている田は少しずつ色づいて、秋が近いことを感じさせてくれます。私は、秋の到来を心待ちにしています。秋がリンゴの季節だからです。私は、少し小粒のリンゴを丸かじりするのが大好きだけでなく、たくさんの思い出があるからです。

         

         小学一年生の時、我が家は青森県三本木市(今の十和田市)に転居しました。当然のこととして、同じクラスにはリンゴ農家の子がいました。学校の近くのその子の家に遊びに行った時、まだ実が熟していないリンゴの木の下で遊びました。まだ小さいリンゴの実をながめながら、この青い実が赤く熟した時にもう一度呼んでくれないかと期待したのですが、その頃は収穫で忙しくて呼んでもらえませんでした。今でも、その時のリンゴの木が思い出されます。

         

         教会員でリンゴ農家の方がいました。少し遠い所の方で、両親が訪問する時、一度だけでしたが一緒に連れていったもらいました。玄関を入ると、右から馬が顔を出したのにはビックリしました。温厚な老人のその方は、自由にリンゴをとって食べなさい、と言っててくれました。子どもの背ですから高い所の実は届きませんでしたが、精一杯手を伸ばして大きくて赤い実を取って口にしました。ところが、渋くてとても食べられませんでした。こっそり投げ捨てたことを今でも申し訳なく思います。

         

         留学中、試験や論文で忙しくなると、リンゴをたくさん買ってきてデスクのそばに置き、お腹が空くとリンゴをかじりながら必死に勉強しました。それで、今でもリンゴを丸かじりすると元気が出るように感じます。先日、家内が買い物からうれしそうに帰って来て、小粒のリンゴが数個入った袋を私に見せました。丸かじりするには丁度良いサイズです。夏の疲れが出る頃ですが、リンゴを丸かじりして「ガンバレ」と励まされた感じがしました。

        | - | 21:33 | comments(0) | - | - | - |
        割りバシと輪ゴム
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           「断捨離」という言葉を耳にします。その度に、私の心は少しうずきます。まるで私に言われているように感じるからです。もう13年前になりますが、私たちの地方は大きな地震に見舞われました。会堂の壁も含めた建物や、食器やテレビや家財道具、そして私の書斎の本棚などに大きな影響が出ました。いまだに片付いていないのが、私の書斎関係です。書籍は相当処分したのですが、まだ手つかずで残っているものもあります。

           

           残っているのは、わずか数個の段ボールですが、ちょっと見たところ同じ段ボールの中に雑多に詰め込んであるので、処分のためには一応確認したいと思うのです。その時間がなかなか取れずに、つい放置したままになっています。家内からは、中を見ないで思い切って処分したら、と言われています。その通り、と思いつつも、イマイチ勇気がありません。そんな私ですから、「断捨離」という言葉を耳にする度、心がチクリと痛むのです。

           

           小学生の頃、クラスで「輪ゴムピストル」が流行しました。使い古した割りバシを何本か利用して、ピストルの形を作り、その先端に輪ゴムを引っかけて、手元の引き金部分を動かすと、輪ゴムが勢いよく飛んでいくものです。その割りバシを組み合わせるにも輪ゴムは必需品でした。クラスの友だちは、それぞれに「銃身」を長くしたりして輪ゴムが勢いよく飛び出す工夫をして自分の「ピストル」作って自慢し合っていました。

           

           私は、自分のピストルを作るのに苦労しました。というのは、その当時の我が家には、割りバシも輪ゴムもほとんどなかったからです。そういう生活レベルだったのでしょう。当時の私にとって、一本の「輪ゴム」も実に貴重なものでした。そんな子ども時代を過ごした私には、「断捨離」はなかなか難しいことです。誰の目にも不要と思えるものが入った段ボールでも、一度自分で見て確認したいと思ってしまうのです。その他のことでも、「手放すこと」は私の課題です。

          | - | 21:36 | comments(0) | - | - | - |
          バプテスマのヨハネ
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             青年たちにアンケートをしました。その中に、聖書に登場する人物の中で誰に親しみを覚えるか、という項目がありました。それぞれに「有名人」が書かれていました。多くの民を率いた偉大な指導者の名前や、敵の勇士を倒した少年の名前、また異国人でありながらしゅうとめに仕えた婦人の名前、町の嫌われ者だったにもかかわらずイエス様を家に迎えた取税人などが記されていました。書いてくださった青年たちの思いを想像しながら頷かされました。

             

             さらに、ペテロの名前を記しながら、あえて「イエス様を三度知らないと拒絶したエピソード」と但し書きを書いてくれた青年もいました。単にペテロの名前だけが記されていても、それはペテロという人物が失敗が多かったから特別に親しみを感じると想像出来ます。それが、あえて「三度拒絶したペテロ」と特定しているのは、とても興味深く感じました。幼いときから教会に集っている青年ですが、自分自身の信仰について真剣に受け止めていることを感じました。

             

             そのアンケートに様々と教えられながら、果たして自分が彼らの年齢の時、どのような人物を挙げていただろうか、と考えました。多分、華々しい活躍をしている人物を、単に「カッコがいい」という程度の理由で挙げていたと思います。自分の弱さや失敗と重ね合わせて親しみを抱くというような深い考えはなかったと思います。では、今の自分は、どういう人物に親しみを覚えるか、と考えてみました。

             

             だれか一人に絞ることは出来ませんが、バプテスマのヨハネもその一人です。彼の奉仕の「地味さ」にあこがれるからです。常にイエス様のために道を備えることを第一とした奉仕でした。ですから、自分の弟子に、イエス様を指さして「神の小羊」と言って、自分ではなくイエス様に従うように勧めました。そして、イエス様が盛んになることを喜び、自分は衰えなければ、と言い切りました。そんなヨハネにあこがれます。でも彼が食した「野の蜜」は、私は苦手です。

            | - | 21:32 | comments(0) | - | - | - |