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牧師のこーひーぶれいく

こだわりのコーヒー
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      11月の最初の聖日でした。11月は、私たち雪国の者にとって、いよいよ冬が近づいたことを感じる時です。いよいよ会堂を暖かくして皆さんをお迎えする準備が必要です。朝、会堂内の温度計で室温を確かめ、暖房が必要なことを確認します。それから、どの暖房をメインにするかを考えます。私たちの会堂は、エアコンとガスストーブ、それに床暖房の併用です。冬が本格化すれば、三つ全部を使います。

     

     私が会堂内の暖房で理想としているのは、一週間の仕事でお疲れの出席者が、思わずウトウトしても風邪を引かない程度、と私は願っています。私の声は、どうも眠りを誘う声(それに加えて内容も?)のようです。その責任もあって、私は会堂の暖房には気を遣います。講壇で声を張り上げている私には少し温かく感じても、座席に座っている方がほんわか温かく気持ちよく過ごして頂ければ良い、と思っています。

     

     そんなことを考えながら迎えた今日の礼拝は、冬の入り口に入ったことを感じる聖日礼拝でした。礼拝を越えて、続いて持たれる月一回のフェローシップの準備をしていると、お一人の方がご自分で淹れてご持参してきたコーヒーを勧めてくださいました。長岡近郊の名水を汲んで来て、その上で特別な方法で淹れたコーヒーです。もう何回も戴いてますので、早速にカップを差し出しました。周りにいた方も集まって来て、コーヒーの試飲会が始まりました。

     

     みんなで少しずつ味わいながら「おいしい」と感動し、そのおいしさのヒミツが話題になりました。こだわりの名水のことや、さらにこだわりの淹れ方などに感心しながら、ますますおいしさが増してきました。そして、そのこだわりのコーヒーを味わっていた私たちが何か心がホッコリと温まった感じがしました。その雰囲気を楽しみながら私は、こんな説教をすることを目標にもっとこだわっていきたい、と自分に言い聞かせていました。

     

     

    | - | 22:18 | comments(0) | - | - | - |
    ラーメン屋
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       もう何年も中断していますが、家内と二人で夕食後にウォーキングをしていました。ウォーキングは、単に身体の健康だけでなく、頭脳のリラックスにもとても良い効果があります。普段は自動車で通り過ぎている景色も、歩きながら見ると新鮮に映ります。家々の垣根なども、自動車ではただ緑の木々ですが、歩きながら見ると木の種類による違いも分かります。それらをじっくりながめながら、様々な思い巡らしをするのが頭脳のリラックスになります。

       

       そんなウォーキングのコースに、一軒のラーメン屋があります。歩く度に、その店先に開店中の看板が出ているかチェックするのがクセになっていました。それは、定休日以外でも結構休んでいることが多かったからです。うわさによる、そのラーメン屋のご主人がこだわりを持っている方で、気に入ったつゆが出来ないと店を開かないのだそうです。それで定休日でもないのに閉店の看板が良く出ていたのだと納得しました。

       

       聖日の朝、私は時々そのラーメン屋のことを思い浮かべます。今日の自分の説教の出来具合だったら、あのこだわりのラーメン屋のご主人はお店を開くだろうか、と考えさせられるからです。そして、しばしば私は自信が無いまま講壇に立たなければならないことがあります。その時の申し訳ない思いは、説教者として何とも辛いものです。説教が終わった後には、どなたとも顔を合わせることが出来ないように感じます。

       

       そのような時にいつも思い出すのは、五つのパンを用いて数千人のお腹を満たしただけでなく、満足を与えたイエス様の御業です。大麦のパンとは、余り美味ではないということです。それでも、人々に満足を与えることが出来たイエス様は、私の粗末な準備の説教でも、人々の心を満たしてくださるハズ、との信仰に立って講壇に立つのです。ラーメン屋と違って、皆さんが教会に来ても、閉店の看板を出すわけには行きませんので。

      | - | 18:03 | comments(0) | - | - | - |
      自称牧師?
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         今日も、聖日のご奉仕を全うできたことを感謝しています。もちろん、欠けが多い者ですので、至らない部分を主が補ってくださることを祈り求めています。ただ、このところ愛兄姉方にご心配を戴き、またご迷惑をおかけしていました私の健康は、今日のご奉仕を越えて、自分でもほぼ回復したように感じています。第四聖日でしたので、午後の読書会もありましたが、それが終わってからも、まだ孫たちと遊ぶ体力も残っていました。

         

         今日は、第四聖日ですので、午後の時間に月一回の三浦綾子読書会がありました。大型の台風が南海上にあって日本に接近している中でしたが、レギュラーのメンバーも次々と来会してくださり、さらに加えて新メンバーも参加してくださり、人数的には賑やかな読書会となりました。ただ、今日は、進行を務めた私が話しすぎて、皆様方の活発な意見の発表を妨げてしまったのでは、と反省し心が少し重くなっています。

         

         でも、今日の読書会の始めに新メンバーを皆様方にご紹介し、さらに主だった会員を新メンバーにご紹介しました。その中で、ひとりのメンバーが、なぜ読書会に来られたかを話しておられました。その方は、三浦文学に興味を持っていくつかを読まれていたようですが、その読書から「キリスト教の牧師」を見てみたいと思って、それで私たちの教会で開催されている読書会に参加しようと思われたとのことでした。

         

         読書会の開始当初から積極的に参加してくださっていた方ですが、私もそのお話しは始めて伺いました。確かに、一般の方にとっては「キリスト教の牧師」は、普段の生活ではなかなか遭遇しない希少動物でしょう。でも、私からしたら、こんな私のような者を見て、牧師とはこういうものか、と思われては大変と、つい「私は自称牧師」ですと、と言ってしまいました。様々な反省と共に、自らの未熟さを改めて痛感した一日でした。

        | - | 21:04 | comments(0) | - | - | - |
        東山
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           わが家からは東山が見えます。と言っても、隣の工場の屋根にさえぎられて頂上部分だけですが。書斎を出た3階の廊下のガラス戸越しに、八方台や鋸山という標高500メートルから750メートルの山並みが見えます。問題や課題に押しつぶされたり、自分の弱さや愚かさに打ちのめされてガックリと落ち込んだときなど、詩篇121篇を口ずさ見ながら東山を見つめています。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。」

           

           しばらく東山の峰々を見つめた後、ホンの少し視線を上に向けて広い空を見ながら、詩篇121篇の次の節「私の助けは、天地を造られた主から来る。」を心に留めます。心にのしかかる重荷や課題、自分のダメさ加減などは少しも解決は着いていなくても、それまでの絶望的な心の重さは、ホンの少し軽くなって、希望と信仰を新しくすることができます。私にとって、わが町の東山連峰は、とても大切な存在です。

           

           今日の礼拝は、少し特別な意義のある礼拝でした。70年近く信仰生活を辿られた一姉妹の追憶記念礼拝としたからです。そのご姉妹は、結婚を機に、一切の集会出席が許されない環境に置かれました。近くの実家にすら立ち寄ることも出来ないほど厳しい管理下に置かれたと伺いました。そのような中、月末になると教会に立ち寄られていました。月末の集金を必死に早くに済ませて、短い時間を作り教会に来て祈っておられたのです。

           

           今日の礼拝で、そのご苦労を近くにいて見ていた方から、その姉妹が詩篇121篇で信仰が支えられていると証ししておられた、と伺いました。多分、そのご姉妹も、詩篇121篇を口ずみながら東山を見上げておられたのかな、とそのご苦労と涙の日々を忍びました。その方が残してくださった、困難や試練の中で御言葉に支えられる信仰という証しを、これからも受け継いでいきたいと思います。これからは、また新たな感動をもって東山を見上げることが出来ます。

          | - | 20:04 | comments(0) | - | - | - |
          じぃじが、勝手に・・・
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             十月の第二聖日を越えることが出来ました。8月末から9月初めの入院によって、想像以上に体力が落ちたことを感じている私ですが、それでも日に日に回復をしていることを実感しています。そんな私にとっては、一回一回講壇のご奉仕を越える度に、奉仕できたことを感謝しています。長岡教会の兄姉方が様々と支えてくださり、私の欠けを補っていてくださることも大いなる感謝です。今日も、新しい聖書の頒布が一人の兄弟によってパーフェクトになされました。

             

             明日は、二地域での分散開催となった北越聖会です。長岡出身の林先生を講師にお迎えすることで、喜びと期待は倍増です。その準備もあって、今日の午後の集会お休みとしました。いままではこんなことはなかったのですが、午後の少しの時間を横になって休息する時間にしました。夕方には、どうしても一軒の訪問があったので出かけました。帰宅して、また休息を取ろうかと思っていたとき、携帯電話が鳴りました。孫娘からの電話です。

             

             数日前、初めての通知表を見せてくれた小一の孫と約束をしていたのです。一学期(というか、前期)を頑張ったご褒美に、じぃじと二人で外食をしよう、と。その時は、雰囲気に負けて、励ましになればと思って約束したのですが、現実になると正直少しおっくうな気がしました。でも、声を弾ませている孫娘の声を聞くと、少し元気が出てきました。しかも、4歳の孫娘も一緒に行きたいと言っているとか。またも軽はずみに「いいよ」と言ってしまいました。

             

             出かけようと、四歳の孫娘に手を出して「だっこしようか」と言うと、「ママがダメって」と遠慮しました。体調が悪い私を気遣ってママが言い聞かせたのでしょう。それでも、手を出して「おいで」というと、「じぃじが勝手に抱っこするならいいよ」と言って抱っこされてきました。私が「勝手に」か・・・と苦笑いですが、神様の私たちに対する愛、特に十字架に現された愛は、まさに「神様が勝手に…」という真実で深い愛だと感謝の思いを新しくしました。

            | - | 20:35 | comments(0) | - | - | - |