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牧師のこーひーぶれいく

小さな光
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     今日は(も)、私にとってフルな一日でした。司会者が、どうしても抜けられない責任から欠席されたので、私が代わりました。今日は子供祝福礼拝でしたので、礼拝の中の讃美の一つを「主われを愛す」にしました。週報に英語の歌詞「ジーザス・ラブズ・ミー」をプリントして、会衆全体で童心に返って英語で歌いました。その説明などを考えると、私が司会から担当したことはかえって最善だったのかと思いました。

     

     礼拝の説教は、新しい試みにチャレンジしました。子供祝福礼拝と言うこともあって、いつもの講壇から降りて、一段低い段に立って会衆席にグッと近い所から語りかけるように説教をしました。子どもたちにいくつかの質問をして、その応答を頂きながら説教を進めました。いつもですと講壇の上に置いた「原稿」から目を離さないで説教を語るのですが、今日は、子どもたちや聴衆を意識しながら語らせて頂きました。

     

     午後の「聖書と賛美の集い」では、司会者や証者の言葉に多くを教えられ励まされて、感謝と共に奉仕を終えました。その後、教会員の方々が会堂を清掃して下っている間、私は道路に面した場所に最近設置された「看板・掲示板」の聖句を交換しました。この掲示板には毎週、新しい聖句を二つ掲示するように心がけています。ただ、実際にやってみると、これが案外むずかしいことだと分かってきました。

     

     というのは、ここに掲示する聖句は、信仰者が心に深くうなずく聖句と言うよりも、一般の方々に見て頂き、心に何らかの印象を受けていただきたいという聖句が理想です。単なる人生訓的な言葉だけでなく、未信者の方々が少しでも神様の恵みや愛を感じる聖句を選びたいのです。小さな掲示板ですが、まさに「小さな光」をこの世に輝かせたいのです。まだ始めて一ヶ月ですが、新しい視点から聖書を読む楽しさを感じています。

    | - | 20:37 | comments(0) | - | - | - |
    心地良い疲れ
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       今日は、新しい月の第一聖日でした。私にとっては少しハードな10月を越えて迎えた今日でした。毎月第一聖日礼拝には、讃美歌を三曲楽器演奏と共に讃美する「シングスピレーション」があります。そのため、楽器演奏者は早めに来て練習と打合せをします。今日も、少し早めに来られた演奏者たちが、練習の合間に何やら楽しそうに話していました。聞くと、演奏者のお一人が新しい楽器を持ってこられたというのです。

       

       その方は、リコーダーを担当しているのですが、今日手にしていた楽器は確かに今までと「色」が違いました。その時はじっくり伺うことができませんでしたが、後で家内から聞くところによると、東京の専門店で購入されたとのことでした。細かい事情は知りませんが、試し吹きができる唯一のお店だとのことです。それまでのリコーダーとは格段にすばらしい楽器のようです。音が出やすく、しかも深い音色だそうです。

       

       これまでずっと新しい楽器を願っていたとのことです。礼拝で演奏する楽器を、それ程までに真剣に考えていてくださったのか、と心から感謝しました。格別な感動を覚えながら今日の礼拝に臨みました。会衆席を見ると、就職で長岡を離れている方が、しばらくぶりに顔を見せてくださっているのが分かり、さらに感謝しました。説教の前に、人の声ではなく主の声に心を傾けてくださるよう、真剣にお祈りをしました。

       

       礼拝後には、しばらくぶりにフェローシップの時が持たれました。カレーライスを食べながら、それぞれが自由に楽しそうに話している姿を見て、主にある家族の団らんのすばらしさに心が温かくなりました。礼拝後には、数件の訪問をしました。運転は家内がしてくれましたので、私はノンビリと市内の様子を眺めていました。帰って来て、心地良い疲れを感じながら居間に腰を下ろしました。丁度正面に鏡があったので自分の姿を見ました。そこには、もうすぐ古希の疲れた老人の姿が映っていました。 

      | - | 18:50 | comments(0) | - | - | - |
      雲の流れ
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         今日は、今月の第四日曜日と言うことで、午後にはいつものように「三浦綾子読書会」が開催されました。今は課題図書として「細川ガラシャ夫人」を読み進めています。個人的には、歴史が大の苦手な私にとっては、いつも手探りのような思いで読書会に加わっています。今回は、玉子(後のガラシャ夫人)が細川家に嫁ぐ前後が読まれました。人名を始めとして難しい漢字が多い中、朗読してくださる方が明快に読み進めてくださり感謝しました。

         

         玉子の父は、あの(?)有名な明智光秀です。この本を読む前の私にとって、明智光秀と言えば「敵は本能寺」と言って主君織田信長を討ったにもかかわらず、惨めにも「三日天下」で終わった武将という程度の知識でした。しかし、三浦綾子さんが書き表した文章を読むうちに、明智光秀の傑出した人格者ぶりに認識を新しくしました。その人格的な魅力から、今になって明智光秀に対する評価が変わっているのでは、と思いました。

         

         読書会の一番の特色は、それぞれが思っていることを自由に語り合い、自分と違う意見に耳を傾け、自分の見方や考え方を広げることにあります。決して、みんなで同じ意見になる必要はありません。だからこそ思い切って自分の考えを心配しないで発表することができます。初めて聞くような意見に、ハーッと感心したり、そんな考え方があるのかと教えられたりしています。いつもアッという間に時間が過ぎてしまいます。

         

         今日も、予定時間を大幅に過ぎて読書会が終了しました。外に出ると、雨がポツポツ降っていました。自転車で来ていた方は濡れてしまうと心配しましたが、元気に「大丈夫です。」と走り去りました。バイクで1時間以上も走ってこられた方はどうするか、と案じていると、読書会仲間の一人が西南の空を指さしながら「青空がのぞいているから大丈夫らて(長岡弁)。」と報告してくれました。仲間のために雲の流れを見て励ます読書会仲間の友情に心が温かくなりました。

        | - | 19:19 | comments(0) | - | - | - |
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           イエス様のゲッセマネの祈りの記事で印象的なのは、ルカ福音書が記している「血のしずくのような汗」です。マタイとマルコは、深い悲しみと悩みで、イエス様がもだえていると記されていますが、汗のことは触れられていません。しかし、その余りに深い苦悩のゆえに、汗が前進から噴き出したと言うことは想像できます。私自身、昨年、術後の処置の時に、神経を引っかき回される痛みを味わったとき、脂汗が全身から噴き出したからです。

           

           そのイエス様の苦悩に満ちたゲッセマネの祈りを、ヘブル書は「涙の祈り」と記しています。私たちも人生の苦悩の中で涙を流すことがあります。悲しみの涙や悔し涙など、涙にも様々な意味合いがありますが、日本社会では一般的に涙は弱さや敗北という印象があるように思います。ですから、多くの人は涙を隠そうとするのではないでしょうか。しかし、聖書はイエス様の涙を隠そうとはしていません。むしろ尊いものとしてハッキリと示しています。

           

           先週、私は「涙」に関する一つのエピソードを伺いました。長く闘病生活を送ってきた一人のお母さんが、このところ病状が悪化してきて意識もなくなってきたのです。医師から最期の時が近いことを告げられたご長男は、枕元で母親に、後のことは心配しないで任せて、と話しかけたそうです。すると、ずっと意識も無くコミュニケーションを取ることができなかった母親の目からスーッと涙を一筋流れ出たそうです。

           

           詩篇には、神様が私たちの涙を「皮袋」に蓄えていてくださると記されています。私たちが流す涙も、神様は決して弱さや敗北のしるしとして軽蔑したり、泣くなと叱咤激励するのではなく、この上ない尊いものとして覚えてくださるのです。意識が無いと思われていた母親が、その病床で流した一筋の涙は、まさに神様から尊い涙として受け止められ、そこに込められている様々な思いと願いは、神様に聞き入れられたと信じています。

          | - | 22:18 | comments(0) | - | - | - |
          コスモス
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             今日は、とてもさわやかな秋の日でした。いくつかの町内会では避難訓練が実施されたとかで、レギュラーの何人かは欠席でした。午後には、今月一回だけの「伝道会・聖書と賛美の集い」が持たれました。やはり、様々なご都合で欠席の方が多く、少々さみしい集いでしたが、司会や証などの真実なご奉仕を頂いて、心は感謝であふれました。特に、先週の月曜日に開催された「第44回・北越聖会・新潟地区」の感想が分かち合われ、講師の熊谷師の真実なご奉仕により、多くの恵みを戴いた感謝が語られていました。

             

             すべての集会とその後の後片付けを終えたところで、家内が公園に行こうと誘ってくれました。長岡の郊外に、国立の丘陵公園があります。そこのバラとコスモスが見頃とのことで、数日前から行きたいと言っていたのです。いつもですと、グッタリと疲れて何をする元気もないのですが、健康とダイエットの必要感から誘いに乗ることにしました。何しろ、衣替えで着た秋冬の服がギュッと締まった感じになって、何とかしなければと思っていたからです。

             

             小学の低学年の頃、十和田教会の庭にはコスモスがたくさん咲いていました。自分の背丈を越えたコスモスの林の中を遊び回った記憶があります。背伸びしてコスモスの花をちぎり取り、花びらを間引きしてコスモスの竹とんぼを作って遊んだのです。コスモスというと、すぐにその光景が思い浮かびます。なぜアノ光景なのか自分でもわかりません。きっと、なんのストレスもない子どもの頃の無邪気な日々のなつかしい思い出として心に深く刻まれているのでしょう。

             

             そんなこともあって、聖日の集会を終えた夕方、本当は疲れて休みたいのですが、コスモスの言葉にさそわれてノンビリした時を過ごしました。セミナリーの新約の教授が退任の記念講演の時、もう一度人生をやり直せるとしたらしたい事、という中に、もっと散歩をしたい、と言っていたことを思い出しました。確かに、自然を眺めて身体を動かすことは良い気分転換になりました。これからも精一杯の仕事をするために、私ももっと散歩をしようと思いました。

             

             

            | - | 18:53 | comments(0) | - | - | - |